2015年 01月 09日
大坂城の物語 |
「大坂冬の陣」の勃発とともに、大坂方は外様大名の協力をあてにして諸国に兵を募ったが、期待に反して大名の入城は皆無。集まったのは大坂城内の莫大な金銀が目当ての野心家、関ヶ原浪人ばかりであった。長宗我部盛親、毛利勝永にならんで、ここに真田幸村の名が出てくる。情報収集に長けた真田には情勢が充分わかっていたはずだ。太閤秀吉に義理を立てて淀どのと秀頼母子に肩入れする理由はない。それなのに真田幸村が大坂に入城したのはなぜだろう。
関ヶ原で西軍に与し惨敗を喫した真田昌幸と次男幸村父子が死一等を減ぜられた。徳川方についた長男真田信之の尽力によるものである。東西どちらが勝っても生き延びねばならぬ。これは戦国の小領主真田家の深慮遠謀だと言える。流罪となった高野山の麓に幽居11年で、父真田昌幸が病死。関ヶ原以来14年の間、真田は動かない、動けない。
生き延びる知恵をもった父昌幸はもういない。大名でもなく14年の田舎暮らしの染みついた真田幸村は、豊臣恩顧というよりも、他の浪人たちと同じように大坂城の莫大な金銀に惹かれて、大坂城に入ったに違いない。この機会に手柄を立てれば天下さえ狙える、真田幸村にとって一発勝負の大博打だったにちがいない。形勢不利となって勝機は見えず、語り草となった家康本陣への激しい切り込みは、真田幸村渾身のそして最後のあがきだった。
真田幸村の首は松平忠直の鉄砲頭が取った。手傷を負ってくたびれ果てて伏したところを挙げた首だったから、手柄にもならなかったという。大坂方には真田幸村のほかに後藤又兵衛、木村重成、明石全登もいて戦った。淀どののそばに大野治長もいた。千姫に託した助命嘆願も無力だった。山里曲輪の淀どの秀頼母子は自害し、大野治長ら近臣は唐物倉の爆薬に火をかけてこれに殉じたのだった。「大坂夏の陣」で戦国の乱世は終わる。
慶長十九年(1614)11月中旬から12月中旬の「大坂冬の陣」、翌元和元年(1615)5月6日、7日たった2日間の戦いで終わった「大坂夏の陣」で、豊臣氏は滅亡した。今年2015年は「大坂城400年記念イベント」の呼び声がちらほら聞こえる。立役者を挙げるなら、世間では真田幸村ただひとり。ボクは、真田幸村でなくてもいい。淀どのと千姫が好き。太閤さんはテレビ役者たちが濃い演技でイメージを作ってしまって、かつて大阪の誇りだった立身出世の日吉丸はもう大阪にいない。
by kumamotoyukioch
| 2015-01-09 11:56
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