佐々木節子 2021 |
「緑道」と題された100号の作品が原田の森ギャラリーに展示されます。
描かれたこの道は、ぼくが家内と一緒に、保育園の孫娘のお迎えに通った、公園脇の遊歩道だと思います。モデルはピアニストのお嬢さまかしら?
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2021年 08月 22日
芦屋在住の画家 佐々木節子さんからご案内をいただいたのでご紹介します。
「緑道」と題された100号の作品が原田の森ギャラリーに展示されます。 描かれたこの道は、ぼくが家内と一緒に、保育園の孫娘のお迎えに通った、公園脇の遊歩道だと思います。モデルはピアニストのお嬢さまかしら? 画家佐々木節子の風景は、目線がいつも脚立の高さで、奥行きがある優しいタッチ。まるで自分がこの絵の中にいるかのように感じられる愛すべき作品ばかりです。
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by kumamotoyukioch
| 2021-08-22 07:06
| 美術
2019年 06月 14日
マンションにお住いのかたが、芦屋在住の画家佐々木節子さん指導の淡彩画グループ「淡遊会」に参加されて、毎年この季節に芦屋市民センターで開催される作品展に2点、出展されるので、昨日家内と一緒に観に行きました。第21回「淡遊会」作品展。令和元年6月12日~17日、芦屋市民センター。
グループのみなさんの作品をざっと拝見した印象は、水彩画と淡彩画のそれぞれのこだわりみたいなものがなくて、水を含んだ絵の具をスポンジで吸い取り、ぼかすといった淡彩の技法を多用せず、絵の具をパレットからそのまま画用紙に置かれているひともいて、それぞれのひとの、のびのびと自由な画風が楽しめる展示でした。 佐々木節子さんの絵は「紫陽花」と「T氏の肖像」の2点ありました。 受付のデスクに普通の大学ノートが置かれていて、筆で横書きの署名をしました。「芳名帳」が別に用意されていたのにごめんなさいと、あとで電話をいただきましたが、いいえ別にこだわりはありません。しかし、昔から芳名帳の毛筆の署名の下手なことをいつもながら恥じ入ります。 松本清張「球形の荒野」の冒頭、奈良の西の京、唐招提寺と薬師寺の芳名帳に独特な筆跡を見つけ、姓名は別の人だが、これは亡くなったとされる叔父の署名ではないかと気がかりになる…。とても魅力的な書き出しなのです。ああ、ぼくには絵も書道もやってみる時間はもう残されてないのかな。 #
by kumamotoyukioch
| 2019-06-14 09:20
| 美術
2019年 05月 21日
第56回兵庫光風会展 画家佐々木節子作品の印象 第56回兵庫光風会展が2019年5月21日から26日まで王子動物園前の原田の森ギャラリーで開催されている。家内とふたりでその初日に見せていただいた。毎年ご案内くださるのは同会の会員、芦屋市在住の画家、佐々木節子さんである。会場は初日でもあり、ご本人はお取込み中でゆっくりお話しをうかがうことはできなかったので、出品作品2点のご紹介できる写真がない。 目録で最初にあげられている作品名は「少女の頃」そしてもう1点は「ふるさと」だった。画家の話が聞けなかったので、想像をめぐらせる。だからまったくの的外れに違いないが、鑑賞の自由も許されるはずだから、勝手気ままな印象を書きとどめておきたい。 「少女の頃」は遠景に藤棚のある公園だが、左側に砂場、右側に滑り台がある。まるで額縁のように周囲に情景がある。この画面に画面中央より幾分右下に、手前に駆けてくる少女がいて、さらにその手前、鑑賞者のいちばん近い距離に、補助輪のついた小さなピンク色の自転車が置かれている。遠景の藤棚が現実世界であり、少女と自転車が画家の記憶の架空の断片である。少女が画家自身であれば題名は「少女だった頃」。しかし「少女の頃」ならば、この少女は愛娘の少女時代の記憶である。それに遠い日の画家自身の少女の頃の記憶も薄く重なっているかもしれないが、やはり、娘に寄せる愛しい思いがこの作品の主眼であろうと思う。 「ふるさと」は椅子にかけた青いドレスの若い女性と、足元にいる猫は、去年発表された「夏のテラス」に類似している。この作品は前の「幻の」少女とは逆に、若い女性と猫がいま現実にそこに居て、その上に遠景の山並みが近く鑑賞者の目の前に広がってくる。芦屋から見る六甲の山が、ずっとそこにいる若い女性と猫を、観念的なふるさとのぬくもりで、やさしく包み込んでいる。若い女性はピアニストであり、愛娘であり、いつもこの画家の目前にいる永遠のテーマである。この作品は、母の目でもあるふるさとの山並みが、画家の大切な宝ものを見守っている。二つの作品は具象でありながら、母の愛という見えないものを見せてくれてあたたかい。 展示されたほかの会員、会友の作品たちは、強い色を使い、めりはりをきちんとつけて主張がある。佐々木節子の作品は、それらにくらべて優しい。これは画家が淡彩の手練れであるせいかもしれない。ぼくも年をとったせいだろうか、100号の油絵よりもスケッチブックに描かれた淡彩の「花たち」がもっと見たい。あわよくばこの画家のさりげないスケッチで芦屋近辺の風景画を見たい。そんな風に思う美術展であった。 少女の頃 左「少女の頃」 右「ふるさと」 「絵を描く自画像」2018年日展入選作品 #
by kumamotoyukioch
| 2019-05-21 17:22
| 美術
2018年 12月 18日
絵師が大工に敵討ちをする話
今昔物語抄訳 巻24第5話 ずいぶん昔になりますが、百済の川成(くだらのかわなり)と呼ばれる絵師がいました。大覚寺(だいかくじ)の滝殿(たきどの)を設計し、御堂の壁絵も描いたひとで、その腕の良さは世に隠れもない名人でした。同じころ、飛騨の工(ひだのたくみ)と呼ばれる大工がいました。このひとは、平城京から平安京に都が遷(うつ)った時に、建築のことをつかさどった大工で、精妙極まる豊楽院(ぶらくいん)を建てた技倆もまた、世に隠れもない名人でした。ともに技倆を競いあいながら仲のよいふたりだったのです。 ある時、大工の飛騨の工が絵師の川成を誘いました。わたしの屋敷内に、一間四面(およそ二メートル四方)の堂を建てたから、見に来ませんか。その壁に絵を描いてくださるとうれしいのですが。絵師が行ってみると、四面の戸がすべて開いています。堂の中に入って内の様子を見てくださいと言うので、南の戸から入ろうとすると、その戸はぴたりと閉じてしまった。驚いて、となりの西の戸から入ろうとすると、またその戸はぴたりと閉じてしまい、さっきの南の戸が開いた。そこで今度は北の戸から入ろうとすると、その戸は閉じて、西の戸が開いた。そこで東の戸へ行くと、その戸が閉じて、北の戸が開いた。こうしていつまでぐるぐるまわっても、どうしても入れない。絵師はがっかりして縁側から下りたが、大工は腹の底から笑いこけた。 それから数日経ったある日、絵師の川成から飛騨の工のもとへ使いが来た。うちへお出かけください。お見せしたいものがあります。これはこの前の仕返しにいっぱいくわせるつもりだな、と警戒して出かけなかった大工も、たびたびの丁寧に誘われるので、とうとう出かけて行った。どうぞこちらへお通りくださいと案内されて、誘われるままに、廊下の遣戸(やりど)を滑らせて開いてみると、部屋の中には大きな人間の死骸(しがい)が、黒く膨れあがって腐ったまま横になっていて、鼻がひん曲がるほどのくさい臭いだ。思いも寄らなかったものを見せられて、大工は声をあげて裸足のまま逃げ出した。すると部屋のなかに隠れていた絵師が出てきて、わたしはここですよ、さあお入りなさい。さも心地よさそうに大声で笑った。おずおずと近寄って見れば、襖に死骸の絵が描かかれていたのだった。このころの物語として有名で、絵師の川成と飛騨の工、このふたりの腕をもてはやさない者はいなかったという話である。 この話では飛騨の工が小振りのからくり御堂を造る。四面すべて開いていた扉は、絵師が扉の前に立つと閉まる。どの扉も前に立つとすぐに閉まって、絵師は中に入れない。これを再現したいと考えた。お話を読むと、絵師は南西北東と、一方向に一つずつ動くが、後戻りも、ひとつ飛ばしもしない。閉まるのはいつも一枚だけで、他の三面は開いている。歯車の仕掛けを床下に作って一枚の扉を絵師の動きに合わせて南西北東に回転させる。大工は外に隠れて、歯車を回すといい。 #
by kumamotoyukioch
| 2018-12-18 21:48
| 文学
2018年 12月 16日
田んぼの中に人形を立てる話
今昔物語抄訳 巻24第2話 ずいぶん昔になりますが、某(なにがし)の天皇の御子で、高陽の親王(かやのみこ)といわれた人がいました。このかたは、世に並びなく細工物を作ることがじょうずでした。たまたまひどい日照りの年があって、田という田はすっかり乾ききってしまい大騒ぎになり、親王が建立された京極寺の河原にある田んぼも、水を引いていた賀茂川の水が絶えてしまったので、田んぼというよりはまるで庭みたいになり、苗という苗が赤茶けて今にも枯れてしまいそうな有様でした。 高陽の親王は、丈(たけ)の高さおよそ四尺(一メートル二〇センチ)ばかりの子どもが、左右の手に器(うつわ)を持って立っている人形を作り、田んぼの中に立てました。その器に人が水をそそぐと、一杯になったところで、その水を自分の顔に流しかけるという仕掛けでした。ふしぎな動きをする人形だと評判になり、見物人が押し寄せた。たくさんの人が、水をそそいで面白がるから、水は自然に流れて、田んぼがすっかり潤いました。田んぼが乾くと、この人形を出してきて立てたから、京極寺の田んぼだけは、日照りに焼けるということがなかったのだそうです。親王の頭の良さ、細工のじょうず、腕のよさをほめない者はなかったという話です。 ちくま文庫「今昔物語」より抄訳 イラスト・キャプション 原文では想像するのが難しいので、勝手に解釈しています。からくり人形だったのかもしれません。「ししおどし」のように、ギッコンバッコン。勢いをつけて人形の頭や顔に水をかぶせる。かぶった水は人形の身体を伝って下に流れ落ち、田んぼの水路に流れる仕組みでしょうか。それにしても、見物人は雨乞いでもせねばならぬ時に、遊びの水をどこから運んで来たのでしょう。 #
by kumamotoyukioch
| 2018-12-16 22:30
| 文学
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