2018年 06月 06日
ふじのたかねにゆきはふりつつ |
小倉百人一首 歌番号=4
山部赤人(出典 新古今集 )
田子の浦にうち出でて見れば白妙の
富士の高嶺に雪はふりつつ
たごのうらに うちいでてみれば しろたへの
ふじのたかねに ゆきはふりつつ
《我流抄訳》
田子の浦に出て、
富士を見れば
白妙の雪が
高嶺に降り積もっている
《我流意訳》
田子の浦に行ってみた。
遠くに富士が見える。
山のいただきが白いのは
雪が降り積もっているのだ。
《内緒話》
田子の浦から見る富士のいただきの、あの真っ白い衣は雪にちがいない。あれが雪であることを誰も疑いはしない。そして雪がいまも降り続いていると詠んでも、誰も疑いはしない。旅する歌人は、美しい遠見の風景画を、想像をまじえて頭の中に描いた。だから富士の高嶺では雪が、その様子は見えはしないのに、いまも、これからも、降り続いているはずなのだ。
ちなみにぼくが覚えているこの歌は、新古今集の百人一首とちがう。万葉集のほうらしい。昔のことだ。
たごのうらゆ うちいでて みればましろにぞ
ふじのたかねに ゆきはふりける
「田子の浦ゆ」の「ゆ」がわからない。なんとなく「湯」を連想した。だから、あるかないか知らないけれど「田子浦温泉」の露天風呂から富士を見る。ああ雪をかぶっているなあ。と、こんな歌だと思っていたのだ。銭湯の絵のような構図を頭に浮かべて詠まれた歌だと解釈するよりも、こちらの読み解きのほうが、空気の冷たさも、湯煙の温もりも、肌で感じられると思うのだが、いかが?
by kumamotoyukioch
| 2018-06-06 09:35
| 文学