2018年 09月 16日
われてもすゑに あはむとぞおもふ |
小倉百人一首 歌番号=77
すとくいん
崇徳院 (詞花集 )
瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
われても末にあはむとぞ思ふ
せをはやみ いはにせかるる たきがはの
われてもすゑに あはむとぞおもふ
《我流抄訳》
滝川の急流は
岩に割かれて
別れても
先ではまた
流れひとつに
《我流意訳》
流れ激しい
急流は
岩に裂かれて
別れても
また行く末に
合わせ流れる
《内緒話》
川の瀬の流れが速いから、岩にあたると水の流れは分かれる。けれどその行く末には、またひとつの流れに合流するのだ。わたしたちも、いまはひととき離れても、行く末にはきっとまた、ひとつになれる。崇徳院が藤原俊成(しゅんぜい。定家の父)に命じて編纂させた「久安百首」に載せられた一首です。ぼくは落語の「崇徳院」を知っています。上の句「瀬をはやみ」の書き付けを、若旦那に手渡して消えた娘の行方を捜しまわる話でしたね。余談ですが「ちはやふる」という落語は、ちはやという名前のおいらんに袖にされた竜田川という名前の相撲取りの話でした。
崇徳院は、鳥羽天皇の第一皇子として五歳で即位、十八年間の在位の後、父鳥羽上皇によって強引に譲位させられました。さらに崇徳院は、息子の重仁親王を天皇にと願ったものの、やはり鳥羽上皇の考えで、後白河天皇(鳥羽天皇と待賢門院璋子の子)が即位します。一一五六年、鳥羽院が崩御になると、崇徳院と後白河天皇との間で、後の天皇にどちらの皇子を立てるかで対立がおこり戦いになります。これが保元の乱です。後白河天皇側が勝利をおさめ、破れた崇徳院は讃岐国に流されます。配流先から朝廷に献上した写経の受け取りを拒否され、皇室を呪詛。望郷の念を抱きながら憤死したことから、のちに怨霊伝説が生まれます。
崇徳院は鳥羽天皇の第一皇子ですが、NHK大河ドラマ「平清盛」では、白河法皇(鳥羽天皇の祖父)と待賢門院璋子の禁断の恋に生まれた子として描かれていました。鳥羽上皇には、叔父子にあたる崇徳院に、深い確執があったのです。ふたりのわが子崇徳院と後白河天皇の争いを見る待賢門院璋子の悲しみはいかばかりのものだったでしょうか。
すとくいん
崇徳院 (詞花集 )
瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
われても末にあはむとぞ思ふ
せをはやみ いはにせかるる たきがはの
われてもすゑに あはむとぞおもふ
《我流抄訳》
滝川の急流は
岩に割かれて
別れても
先ではまた
流れひとつに
《我流意訳》
流れ激しい
急流は
岩に裂かれて
別れても
また行く末に
合わせ流れる
《内緒話》
川の瀬の流れが速いから、岩にあたると水の流れは分かれる。けれどその行く末には、またひとつの流れに合流するのだ。わたしたちも、いまはひととき離れても、行く末にはきっとまた、ひとつになれる。崇徳院が藤原俊成(しゅんぜい。定家の父)に命じて編纂させた「久安百首」に載せられた一首です。ぼくは落語の「崇徳院」を知っています。上の句「瀬をはやみ」の書き付けを、若旦那に手渡して消えた娘の行方を捜しまわる話でしたね。余談ですが「ちはやふる」という落語は、ちはやという名前のおいらんに袖にされた竜田川という名前の相撲取りの話でした。
崇徳院は、鳥羽天皇の第一皇子として五歳で即位、十八年間の在位の後、父鳥羽上皇によって強引に譲位させられました。さらに崇徳院は、息子の重仁親王を天皇にと願ったものの、やはり鳥羽上皇の考えで、後白河天皇(鳥羽天皇と待賢門院璋子の子)が即位します。一一五六年、鳥羽院が崩御になると、崇徳院と後白河天皇との間で、後の天皇にどちらの皇子を立てるかで対立がおこり戦いになります。これが保元の乱です。後白河天皇側が勝利をおさめ、破れた崇徳院は讃岐国に流されます。配流先から朝廷に献上した写経の受け取りを拒否され、皇室を呪詛。望郷の念を抱きながら憤死したことから、のちに怨霊伝説が生まれます。
崇徳院は鳥羽天皇の第一皇子ですが、NHK大河ドラマ「平清盛」では、白河法皇(鳥羽天皇の祖父)と待賢門院璋子の禁断の恋に生まれた子として描かれていました。鳥羽上皇には、叔父子にあたる崇徳院に、深い確執があったのです。ふたりのわが子崇徳院と後白河天皇の争いを見る待賢門院璋子の悲しみはいかばかりのものだったでしょうか。
by kumamotoyukioch
| 2018-09-16 20:31
| 文学