2018年 10月 17日
よをおもふゆゑに ものおもふみは |
小倉百人一首 歌番号=99
ごとばいん
後鳥羽院 (続後撰集)
人もをし人も恨めしあぢきなく
世を思ふゆゑに物思ふ身は
ひともをし ひともうらめし あぢきなく
よをおもふゆゑに ものおもふみは
《我流意訳》
時には人を親しく思う
その一方で
人を責めるわたしがいる
世のことが思う通りに
運ばないことは
分かっているが
わたしはもう
夢見ることすら
あきらめてしまったのだ
《我流抄訳》
ある時は人々を愛しく思い
またある時は恨めしいとも思います
乱れたこの世はどうにもできないと
わかっているのです
それゆえに思い悩むのですよ
《内緒話》
貴族政権の時代が終わって武家政権が確立した激動の時代です。「をし」は「愛し」。人への愛憎が交錯し、思い悩みながらも、世を変える術はないことを嘆いています。この歌の時代背景を手探りするために、後鳥羽院(ごとばいん)のことを知らなければなりませんね。高倉天皇の第四皇子。安徳天皇都落ちののち、平家が滅びた年四歳で即位。十二歳のときに鎌倉幕府が成立します。源頼朝が死んだ年十九歳で土御門天皇に譲位して院政をとりますが、北条執権政治が始まると幕府と対立します。このころ、歌会に熱心で藤原定家らに「新古今和歌集」の編纂を命じています。百人一首のこの歌は「後鳥羽院御集」の詞書によりますと、定家、家隆らと詠んだ「述懐五首」の三十二歳の作であることがわかります。ですから、討幕にかかわる契機や「承久の乱」に結びつく直接の心情が、この歌に読み込まれている訳ではありません。討幕の機会をうかがっていた後鳥羽上皇は、三代将軍実朝が暗殺され、源氏の正統が絶えたのを機に、朝権回復のため北条義時追討の院宣を発しました(承久の変)。しかし院側は幕府の軍に敗れ、後鳥羽法皇は隠岐に配流となりました。そして十九年間在島のまま六〇歳で崩御しました。後鳥羽院が隠岐へ流された時、尾道から備後を北上し出雲を抜けるというルートを使ったという伝説があって、浅見光彦の妹・祐子と親友の正法寺美也子が、この伝説の道を辿る旅に出たのは、内田康夫の名作「後鳥羽伝説殺人事件」でしたね。
ごとばいん
後鳥羽院 (続後撰集)
人もをし人も恨めしあぢきなく
世を思ふゆゑに物思ふ身は
ひともをし ひともうらめし あぢきなく
よをおもふゆゑに ものおもふみは
《我流意訳》
時には人を親しく思う
その一方で
人を責めるわたしがいる
世のことが思う通りに
運ばないことは
分かっているが
わたしはもう
夢見ることすら
あきらめてしまったのだ
《我流抄訳》
ある時は人々を愛しく思い
またある時は恨めしいとも思います
乱れたこの世はどうにもできないと
わかっているのです
それゆえに思い悩むのですよ
《内緒話》
貴族政権の時代が終わって武家政権が確立した激動の時代です。「をし」は「愛し」。人への愛憎が交錯し、思い悩みながらも、世を変える術はないことを嘆いています。この歌の時代背景を手探りするために、後鳥羽院(ごとばいん)のことを知らなければなりませんね。高倉天皇の第四皇子。安徳天皇都落ちののち、平家が滅びた年四歳で即位。十二歳のときに鎌倉幕府が成立します。源頼朝が死んだ年十九歳で土御門天皇に譲位して院政をとりますが、北条執権政治が始まると幕府と対立します。このころ、歌会に熱心で藤原定家らに「新古今和歌集」の編纂を命じています。百人一首のこの歌は「後鳥羽院御集」の詞書によりますと、定家、家隆らと詠んだ「述懐五首」の三十二歳の作であることがわかります。ですから、討幕にかかわる契機や「承久の乱」に結びつく直接の心情が、この歌に読み込まれている訳ではありません。討幕の機会をうかがっていた後鳥羽上皇は、三代将軍実朝が暗殺され、源氏の正統が絶えたのを機に、朝権回復のため北条義時追討の院宣を発しました(承久の変)。しかし院側は幕府の軍に敗れ、後鳥羽法皇は隠岐に配流となりました。そして十九年間在島のまま六〇歳で崩御しました。後鳥羽院が隠岐へ流された時、尾道から備後を北上し出雲を抜けるというルートを使ったという伝説があって、浅見光彦の妹・祐子と親友の正法寺美也子が、この伝説の道を辿る旅に出たのは、内田康夫の名作「後鳥羽伝説殺人事件」でしたね。
by kumamotoyukioch
| 2018-10-17 13:10
| 文学